めげない ちから
退院というゴールのアーケードを無事に設置できたので、この先のこのBlogは、「治療記録」とは言えないものとなっていきそうだ。
まだ抗がん剤治療とリハビリは続いているけれど、ぱっと見、ものすごく元気なので、「あなたはどこが悪いの?」と、入院患者のおばあちゃんたちからはしょっちゅう質問されるほどである。
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同病者の方、治療中の方、病気や治療の情報が欲しい方へ。
そんなわけで、わたしの治療はゴールへ近づいているので、申し訳ないけれど、最近のこのBlogには、たいして病気の情報は無いのだ。
どんな経緯でどんな治療をしてきたか?については最初の方の記事を。
どんな手術をしてどんな経過だったか?については中間あたりを読んでいただきたい。
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この辺からこのBlogは、わたしのただの日記になっていくだろうから、同病者の方、治療中の方は、「治療終わりに向かってるからってヘラヘラちょーしに乗ってんじゃねぇよっペッ!」と、読んでいてムカついたり、傷ついたりするかもしれない。もしそうであったら、本当に申し訳ないし、読むことをすぐにやめていただければと思う。
けれどひとつ言いたいことは、わたしの治療が終わろうが続こうが、どんなときもいつもわたしはあなたの味方であって、いまもこれからもあなたと一緒に歩いているつもりだ、と言うこと。
うざいだろうけど、いまもこれからも、ずっとあなたの家族であり仲間であり戦友だと、わたしは勝手に思っている。
会ったこともない、戦友のみなさんへ。いつも、本当にありがとう。
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人それぞれの考え方があるけど、
前から言っているとおり、癌には、寛解(かんかい)はあっても、完治は無いとわたしは思っている。
なのでわたしは、わたしの癌が「おさまった」だけのこの身体を、死ぬまでずっとかかえて生きていく。
癌はおさまっているだけなので、
またいつどこで悪さをしだすかわからない。
そのことにおびえ続けて生活するのは非常に疲れるので、しないけど、
わたしの場合、寛解しても自分はあまり長生きはしないだろうと、直感的に感じている。
長生きはしないんだろうけど、だからと言って、半年後とか来年とかに死んじゃうのは、すごくイヤだなぁと思う。
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尊敬する みうら◯ゅん氏が、「最期の言葉は、あー楽しかった!にしたい」と言っていて、わたしは大賛成である。
なので、もしたとえば、来年あたりに死んじゃったら、まだわたしは死に際に「あー楽しかった!」とは言い切れない。
もう少しくらいは、楽しいことを経験したい。なので「あー楽しかった!」と言い残すために、まずは来年も生きていたい。
来年を生きるためには今年を生きていなければならない。今月も今週も今日も死なずに生きて、そして自分の五感を超えた第六感までをフル回転させて、今日は今日で、今日のハッピー探しを、わくわくとやっていこうと思う。
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まあまあ死にかけたけど、
ありがたいことにこうして生かされたので、ここまでの治療を振り返ってみる。
たいして頑張ってはこなかった。流れに乗っていただけである。根性があったり、我慢強かった訳でもない。とっくにいろんなことはあきらめた。この明るさは、いろんなことに開き直っているからだ。きっと。笑
そんな自分なので、偉くもなんともない。強くもない。たくさんの人に心配や迷惑をかけてしまったけど、これはわたしの人生のおはなしの一部と言う、ただそれだけである。
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そんな自分にたいして、たったひとつだけ、ほめたい点がある。
たまたまこういう性格でよかったなと思うのだけど、どんなときも、
めげなかった
こと。
イラつくことや凹むことはたくさんあったけど、そのたびに、わたしは決してめげなかった。
「骨肉腫です」と主治医に言われたときも、髪が抜けてハゲたときも、わりとおおがかりな手術をしたときも、抗がん剤治療も、たしかに、焦ったし凹んだ。しかし、めげはしなかった。
そうだ。
わたしたちの素晴らしい能力のひとつに、
「めげない」
があるんだ。
目指したいのは、「カッコいいめげない」なんだけど、それをわかりやすくあらわしている素晴らしい話がある。
わたしはさんきょうだいの真ん中で姉がいるのだが、姉はちょっと前に数年間アジアに住んでいた。なので、ちょくちょくアジアの生活の話を聞く。
そんな話のひとつに、
アジアの過積載バイク
があった。
それは一体何かと言うと、
文章よりも見たほうが話が早いので、以下にGoogle先生から拝借した画像を添付しよう!
こちら↓
(注:たぶん危険なので決して真似しないでください。)
見ての通り、わたしたちが想定する積載量を越えている。
しかし、運んでいる。
「運びたい」という気持ちそのいっしんが、知恵を膨らます。そして方法をみちびく。決してめげない。運ぶ。運ぶのだ。なんとしても、乗せて、運ぶのだ。
姉と一緒に圧倒されつつ爆笑しながらこういった珍写真の数々を見ていたのだが、姉と一緒に出した結論は、
「運べないものは無い」
と言うこと。
ひとことで言うと、
わたしはこんな
「カッコいいめげないちから」
を身に付けたい。
この、卓越したへっちゃら感。
余裕の表情。なんてカッコいいんだろう!!
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そうだ、
人間には、本来、めげないちからがこんなにあるんだ。
出来ないと思った瞬間、
その何かは、永遠に出来ないのだ。
めげない。
それは決して特別な能力ではなくて、きっと誰もが持っているちから。
なんとも微妙なあんばいだし、
使い方を間違えると危険だけど、
わたしたちは本来、
自分たちで思っている以上に、
たくましくて、勇敢で、自由で、そう簡単にはめげないんだ。
めげないちからには、未来があり、可能性があり、希望がある。
なんでも、やりたいことがあるならば、やってみよう。やらせてもらおう。やってみて、できなければ、工夫しよう。工夫してもだめだったら、他の方法を考えよう。どうしても1人じゃ難しかったら、手伝ってもらおう。道具をつかおう。質問してみよう。
そんな、とても当たり前に思えることが、普段、どれだけできているか。
やるまえに、ハナからあきらめてはいやしないか。大人になればなるほど、雑念が取り巻いてしまい、たやすくあきらめていないだろうか。工夫しているだろうか。他の方法を考えてみただろうか。
出来ないことって、本来きっと少なくて、どこであきらめてしまうか、なんだろうなと思う。
「がんばる」と言うのとはちょっと違うと思っていて、
がんばるってキツイから、わたしはあんまりやりたくない。
でも、めげないは、やってみたい。
めげないは、おもしろい。
ちがった世界がひろがる。
無い脳みそなりに、
ぐにゃぐにゃに考えて、
あたまとからだをフル回転でつかおう。楽しもう。めげないことを、楽しもう。
(自分に言い聞かせています。)
・
"諦めていない、と言葉にすることで自分の心のうちの小さな灯に気付いた。
そうや、私はまだ諦めてへん。
諦めない、というのは胸にともった希望の灯を自らは決して消さない、ということだ。
そして諦めさえしなければ必ず拓ける道はある。
何故か今はそう信じられた。"
ーー髙田 郁 著「八朔の雪」みをつくし料理帖 より
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